移民1世紀 第3部・新2世の闇と未来
第10回 ・ 世代越え続く愛憎物語
マニラ市のリム元市長が「浄化作戦」を始めるまで、首都圏随一の歓楽街だったエルミタ地区。中でも、バーやカラオケがひしめき合ったデルピラール、マビニ両通りは、外国人客とフィリピン人がさまざまな「愛憎物語」をつむいだ場所だ。
作戦から約十年、レストランなどが建ち並び復活し始めたマビニ通り。対照的にデルピラール通りでは当時閉鎖されたバーの群れが今もみすぼらしい姿をさらし続ける。
死んだようなデルピラール通りだが、往時をほうふつさせる飲み屋もいくつか残っている。客は「出会い」の場を求めてやって来る外国人男性と「自由恋愛」で春をひさぐ比人女性たち。一組、また一組と即席のカップルが出来上がり、大音響と薄暗い照明に包まれた店内からデルピラールの闇へ消えていく。
ハナコさん(37)=仮名=はその夜も店に残ったままだった。もう何組のカップルを見送っただろうか。三時間もすれば夜明け。パサイ市にある自宅では子供三人が待っている。日本人客を見つけて「ねえー、チップちょうだい」とジプニー代と明日の食費をせびらなければならない。
ハナコさんの母もエルミタ地区で生きる売春婦だった。小さいころ、「ここで待てばお父さんが来るかもしれないよ」と毎日のように勤め先のバーへ連れて行かれ、バスを連ねてやってくる日本人観光客の中に父親の姿を捜した。父の顔、名前は知らない。母は「お前のお父さんはニホンジン」と言うばかりで父の名を明かそうとはしなかった。知らなかったのかもしれない。
一九八○年代に入りハナコさんは、三十半ばを過ぎた母と入れ替わるようにして日本人客専門のカラオケ兼売春あっせん店で働き始める。八三・九〇年には計四回、エンターテイナーとして日本へ出稼ぎに行き、そのたびに「ニホンジンの子供」を身ごもって帰ってきた。
子供は、今年十八歳になった長男と十四歳の二男、十二歳の三男。「ニホンジンの子」とは言うものの、ハナコさんが口にする父親の名前は聞くたびに微妙に食い違う。三人の出生証明書の父親欄も「匿名」または空欄のまま。自分の母と同じように、子供たちにはやはり「お前のお父さんはニホンジン」としか言えない。
親子四人の暮らす家はパサイ市リベルタッド通り近くの違法占拠地区にある。縦横三メートル足らずの掘っ立て小屋で、電気は近くの電線、水は消火栓から「無断調達」している。屋根はさびの浮いたトタン。窓はなく、太陽に焼かれたトタン屋根の下では首を振らなくなった扇風機がよどんだ空気をかき混ぜる。
そんな小屋での暮らしはもう十五年近く続いている。「日本で稼いだお金は出産費用や子供のミルク代でなくなった。今の仕事も生活だけで精いっぱいね」とハナコさん。結局、日本出稼ぎや日本人男性とのさまざまな出会いも、社会の「よどみ」から抜け出すきっかけにはならなかった。
掘っ立て小屋で生まれ育った三男のジョイ君(12)=同=は十歳になったころ、母から初めて父親のことを聞かされた。出生の詳しいいきさつを知らない彼は、心の中にいる「自分たちを置き去りにした父親」を憎んできた。
「将来は警察官になる。そして、父を捜し出してお母さんと僕たちを置いていった理由を聞く。いい加減な理由なら絶対許さない。自分が捕まってもいいから殺してやる」とまで言う。「罪は許すもの。そんなこと言わないで、しっかり勉強しなさい」と傍らで諭すハナコさん。しかし「殺してやる」というジョイ君の目は怖いほどに真剣だ。
六〇年代半ば、日本人との間にハナコさんを産んだ比人の母。日本人との間に生まれたという子供三人を育てるハナコさん。名前さえ知らない日本人の父を憎む子供たち。四十年近く前に始まった「ニホンジン」を影の主人公にした愛憎物語は、たとえエルミタの街がさびれても世代を超えて続いていく。 (つづく)
(2003.9.17)